小さな国の小さな町にある、小高い丘に建つ古びた図書館。
 周辺に家はなく、丘の下には町が広がっているが丘の上にはその図書館だけで、レンガ造りのその外観は歴史を感じさせて夕方のこの時期に見ると少しだけ恐ろしく、禍々しい感じもする。
 そんな図書館の前に、1人の少女が立っていた。

「久しぶりに来ると、おっきく見える……」

 少女の名前はシシィ・アレモア。肩までしかない薄い茶色の髪を上部だけまとめていて、服装は白いシャツに膝丈の水色のチェックのスカート。手には古びたトランクと肩に大きなバッグをかけていて、明らかに本を借りに来た様子ではない格好だ。
 事実、彼女――シシィは本を借りに来たのではない。
 ここに、管理人になるためにやってきたのだ。

「えっと、鍵、鍵」

 図書館の古びた扉を前にドサドサ、と石畳の上に荷物を置いて目的の鍵をシシィは探し始める。バッグのポケットの中に入れておいたはず……と、ごそごそ探ると色々な物の一番下になった状態で、鍵は見つかった。気合を入れて取り出すとそれに続いてポケットの中からハンカチやポケットティッシュが出てきてしまい、シシィは慌ててそれらを集めて、またポケットの中に押し込む。
 バッグとトランクの中身はギュウギュウなので、早く荷を解きたいものだ。

「これ、でいいんだよね」

 シシィは手の中にある、古びた鍵をオレンジ色の瞳で見つめる。
 古びている、と言っても持ち手のところにはキレイな水色の石がはめ込まれている凝った作りのアンティークキーだ。その美しい鍵をシシィは目の前の扉の鍵穴に差しこみ、回す。
 ガチャン、という音を鳴る。
 シシィは夕日を浴びながら、ゆっくりと扉を開けた。

「うわぁ……」

 中は広いロビーになっていて、まず扉から入ったら目に付くのは左右から中央に重なるような造りの階段。1階には左右と中央に扉があって3つのうちどこからでも図書室に入れるようになっているようだ。2階部分の扉は1つだが、おそらく中からでも2階には上がれるのだろう。壁は白だが、柱が色々装飾されていて豪華だ。
 ――改めて観察すると、どこかのお城みたいだなぁ。
 赤いじゅうたんを恐る恐ると踏んで、シシィはやっとロビーへと入った。
 窓からはオレンジ色の光が差し込んで、少しだけこの建物を寂しく見せる。そんな胸に押し寄せてきそうな寂しさを紛らわせるため、彼女はキョロキョロと辺りを見渡して――気がついた。

「……アレ?」

 右側の扉の前に、こちらを見ている犬の銅像が置いてある。
 何というか、何故邪魔そうな位置にあるのかが不思議だ。
 じー、と見ていると、
 ぱちり、と。
 その銅像はまばたきをした。

「ひゃあわっ!!」

 びっくりして、荷物を全てその場に落としてしまった。
 ドッドッドッ、と脈打つ心臓を静めようと胸に手を当てながらその銅像を観察すると、銅像は首をかしげて、耳をぴくぴく動かしているではないか。
 どうやら、本物の犬だったらしい。
 あまりにも真っ黒な犬だったので、置物かと思ってしまった。

「……あれ、でも何であの子入れたんだろ?」

 まあ、どこからか入ってきたのだろう、と深くは考えずにシシィはチッチッ、とその犬を呼んでみる。警戒して近寄ってこないだろうか、とも考えたが案外あっさりと犬はシシィの呼びかけに応えて近づいてきた。
 近くで見ると結構大きな犬、なのだが。

「え、なぁに君………かわい〜っ!」

 頭の上に、ちょこんと黒い帽子を被っている。紳士が被るようなつばありの帽子だ。
 犬好きである彼女はその姿にキュン、ときた。

「どこから来たの、君……かわいいなぁ、もう」

 本当ならば追い出さなければならないのかもしれないが、何せ慣れないところでおまけにこんな時間に1人きりというのは寂しいを通り越して怖い。たとえ犬でもこの子が居てくれれば1人ではないのだ。
 シシィは驚かさないよう犬と目線が合うように座り込んで、恐る恐るゆっくりとその黒く大きな犬を抱きしめた。フカフカとしている。

「ちょっとだけ、私に付き合ってくれないかな?付き合ってくれたらおいしいものあげるから、ね?」

 分かってくれるかなぁ、と思いながら言ってみるとその犬はこくり、と理解したように頷いてごしごしと体を擦り付けるように甘えてきた。
 人懐こくて、かわいい。

「君、何て名前?」
「ルウスです」
「へぇー意外とカッコいいね、私はシシィ……」

 って、待て自分。

「……」

 今、明らかにこの腕の中にいるお犬様は喋らなかっただろうか喋ったよ。
 ちょっと涙でにじんだ視界を自覚しながらシシィはゆっくり、非常にゆっくりと犬から離れて距離をとり、じ、と見つめた。
 どこからどう見ても、犬。

「どうされたのですか?」

 なのに、喋る。


「ぅぎゃあああぁぁぁあぁあああぁぁああああぁぁぁぁぁぁっ!!」


 ホラーだ怪談だ奇談だ陰惨たる洋館の扉を開けてしまったんだ!と自分でも訳の分からないことを頭に駆け巡らせながら、シシィは図書館から出ようと出口へと走ろうとした、が。

「自分から名前を聞いておいて、それはないでしょう」
「ひうにょぉぉぉぉ!?」

 先回りされて、道をふさがれた。
 もうこれはアレだ、食われるしかないらしい。

「私はおいしくないですおいしくないですおいしくないです!」
「おや、おいしいものをくれるのでし」
「ぎゃあああああああああぁぁぁあ!」
「……ちょっとしたジョークですから、そんなに怯えないで話を聞いてください」

 このタイミングでそのジョークは、タイミングが悪すぎるか趣味が悪すぎる。
 シシィは涙で潤んだ疑いの目をルウス、と名乗った犬に向けながらも、とりあえず落ち着きを取り戻して質問してみる。

「はっはなひってなんでしゅか」

 噛みまくった。
 ついでに声も裏返ってしまった。

「はい、私はレイモルルさんを訪ねてきたのですが彼女は今何処に?」
「え!?」

 ルウスの落ち着いた話し方と声に少々圧倒されながらも、シシィはその言葉を理解し驚いた。レイモルル、というのはシシィの祖母にあたり、その祖母のことで彼女はここにやってきたのである。
 シシィはルウスに少しだけ哀れみの表情を向けた。

「先日、鬼籍に入りました」
「何と!」

 遅かったか、とうなだれるルウスを見ながらシシィも祖母のことを思い出す。
 彼女は優しい人で、声を荒げたところなどシシィは1度も見たことがなかった。白髪の頭をお団子にまとめていて、にこりとかわいらしく笑う自慢の祖母。
 彼女はこの図書館の管理人であり、その管理のためにここに住んでいたのだが、病気をしてからは図書館は開けていなかったようだった。ようだった、としか知れていないのは、いうのはシシィの家はこの町にはあるのだが少し図書館から離れているため中々来ることが出来なかったからなのだが、来るたびに祖母は嬉しそうに出迎えてくれた。
 そしてここにやって来ると、オススメの本を必ず教えてくれるのだ。そのオススメの本を探して祖母のもとに持っていくのが儀式のようになっていた、のに。
 祖母は他界してしまった。
 最後に、あの図書館をシシィに譲るとだけ残して。
 シシィは本が大好きだったし、何より祖母がこの図書館をどれだけ大切にしていたのかを知っていたため管理を引き受けたのだ。

「ああ……何てことだ……」
「あの、ルウスさん?だだ、大丈夫ですか」

 うなだれたまま顔を上げないルウスを心配し、シシィが声をかけるとさらに彼(声が低いのでおそらく『彼』だろう)はガクン、と地面に沈み込まんばかりにうなだれた。

「大丈夫……じゃありませんね……最後の希望がたった今絶たれました。もう絶望だけです何もかも終わりです人生投げてこのまま獣として生きていくしか出来ません」
「ふ……へ!?」

 意味が分からなかった。
 獣として、とルウスは言うがずっと犬だったのだからそれはおかしいのでは。そう思ったのが何故か伝わったらしく、彼は自嘲気味に笑いながら言う。

「私は、もともと人間だったのですよ」

 ――人間。

「でででも、あの、犬耳ありますよね」
「ありますね」
「しっぽ、ありますよね」
「バッチリですね」
「さっき、ごしごし甘えてきましたよね」
「若い女性に抱きしめられたのは久しぶりだったので、ついフラッ、と」

 人間だ、間違いなくこのセクハラ的思考は人間だ。
 人懐こいのではなく、犬であることを利用した策略的セクハラ。
 夢見る乙女、16歳という年齢のシシィからすればかなり嫌な確認法だったわけだがこれで彼が人間であるということはシシィの中で不動のものとなったのだった。人間こうやって大人になっていく。

「どうかされました?」
「い、いや……あの、何で犬になっちゃったんですか?」
「よくぞ聞いてくださりました」

 手を握られんばかりに近づかれて(正確には握れないのでそんな心配はないが)、シシィはちょっとだけ身を後ろに引いた。セクハラされたのだからこれくらいの警戒は仕方ないだろう。
 そんなことには構わず、ルウスは耳をぴくぴくさせながら喋りだす。

「1週間ほど前の月の晩、道を歩いていたらいきなり上から何かをふっかけられまして。戸惑っているうちに呪文を唱えられてあっという間に犬の姿に」
「……え?い、いや呪文って。そそそんな魔法使いじゃあるまいし」

 魔法使い、というのはいることにはいるらしいがシシィ自身はもちろん、友人や親すらもそんな人種には会ったことがないという。何処かの大国には魔法を使える人は多いらしいが、そんな国が異常なだけで普通は使うことなんてできないのだ。
 ルウスはシシィの言葉にこくり、と頷いた。

「もちろん魔法使いじゃありませんよ」
「で、ですよね」

「魔術師です」

 何が違うというのか。

「ものすごく簡単に言えば魔法使い、というのは主に外的な効果しか発揮しませんが、魔術師の特徴は内的な効果を発揮させられるということですよ」
「ささ、さっぱりわかりません」
「つまり、魔法使いに惚れ薬は作れませんが魔術師は作れます。代わりに魔法使いは炎を生み出すことが可能ですが、魔術師には段階を踏まなければ無理だということです」

 つまりは心に効く魔法は魔術師が得意で、それ以外は魔法使いの方が得意だということなのだろうか。
 簡単に言えば、という説明も入っているので実際はもっと複雑なのだろう。

「まあ、魔術師はほとんど科学者だと思ってくださって結構ですよ」
「は、はあ……。それで何故ここをを訪ねてきたんですか?」

 不思議なことはたくさんあるが、まずはそれだ。犬になった経緯は分かったが祖母を尋ねてくる理由にはならないはず。
 そんなシシィの考えをルウスは覆してくださった。
 あっさりと、知ってて当たり前のように、言う。


「レイモルルさんが、魔術師だからに決まっているじゃないですか」


 ――おばあちゃん、あたまがまっしろです。

「この魔術は彼女にしか解けないと思っていたので……貴女は何故ここに?」
「……うそ、おばあちゃんが魔術師……?」

 ルウスの質問が聞こえないほど、シシィはショックだった。何せ彼女は別段変わった人ではなかった。真っ黒なフードつきロープも着ていなければ、「ヒヒヒ」と怪しげに笑ったりすることもない。ただ、この図書館を管理してここに住んでいた優しいおばあちゃん、だったのに。
 魔術師、だったとは。
 いや、自分は混乱しているのだ。多分これは夢だ夢に違いない。早いところ部屋に行って眠ってしまえばこんな変な夢は終わりを告げるだろう。
 しかし、ルウスはそうさせてくれなかった。

「……『おばあちゃん』?シシィさん、でしたか。今そうおっしゃいましたね?」
「へ、え、ええ」

 ルウスの銀色の瞳が、鋭く光る。
 嫌な予感しかしなかった。

「何故貴女はここへ?」
「い、いや、あの、その。そ、祖母の遺言で、この図書館は私が引き継いで管理人になったので……です、ね?」
「ああ……やはり私は運に見放されていない!」

 驚くシシィに、ルウスは告げる。

「シシィさんは後継者として選ばれたのですよ」
「そ、それは、図書館を譲り受けましたから……」

「魔術師の、です」

 シシィは遠い目で3キロ先を見つめた後、素早く放り出されていたカバンとトランクを手に持ち図書室の中に走って逃げた。
 わずか3秒の早業だ。

「お待ちなさい、シシィさん!」
「違いますきっと違います絶対違います!私は緑色の怪しい薬を作ったこともなければ空を飛んだこともないです!魔術師だなんて訳分からないものじゃないです!!」
「目の前!髪の長い半透明の女がこちらを見つめながら本を破いてますよ」
「うっぎゃあああぁぁぁあああぁぁぁああぁぁぁあああっ!!」

 持っていたトランクを手放し、シシィは逆走して追いかけてきていたルウスにしがみついてガタガタと震える。実は彼女、ものすごい怖がりであった。
 この際耳元でルウスが「若い女の子はいい香りがしますね」と変態くさいことを言っているのにも構っていられない。

「かっ神の御許に還り給えー!アーメンッアーメン!食べないでくださいー!」
「嫌ですね、シシィさん。幽霊なんて何処にもいませんよ」
「へ?」

 その言葉を信じて、恐る恐る背後を振り返ると確かに何もいない。
 高い本棚がずらりと並びそこに時々はしごがかけられている普通の図書館の光景。
 呆然としていると、

「シシィさん、この世で最も怖いのは生きてる人間ですよ」
「……」
「次逃げたら、さすがの私も強硬手段に出ますから」

 犬なので表情は分からないが、おそらく笑っておっしゃったに違いない。
 図ってか図らずかは知らないが、彼は確かに生きている人間が一番恐ろしいものであるとその身を持って教えてくれたのだった。

「おや、そんなに怯えた目で私を見なくとも」
「おお、怯えますよ……!け、結局どうしたいんですか、私は祖母から何も受け継いでいませんし、ルウスさんが人に戻して欲しくてここを尋ねてこられたならなおさら無理です……っ!何にも出来ないんですよ」
「いえ、この図書館を受け継いだ、ということは魔術師を受け継いだと同義語。彼女の仕事場はこの図書館だった、と言うのは有名な話ですからね」

 と、話す彼をようやくシシィは不思議に感じた。本来魔術師のことなどシシィや他の人のように知らなくて当たり前だというのに、ルウスはやけに博識だ。
 シシィはそっとルウスに提案してみる。

「あ、あの、ルウスさん」
「はい?」
「そんなに魔術のことを知っていらっしゃるなら、自分で魔術を解けばいいのでは」
「無理ですよ、私は職業柄魔術師には詳しかっただけで、魔術に詳しいわけではありませんから」

 職業柄。
 そういえば、何故そもそも犬に姿を変えられてしまったのだろう。

「ルウスさん、何で魔術師の人に犬にされたんでしょうか」
「ふむ、心当たりがさっぱりありすぎて」
「……ありすぎる、んですか」

 ははは、としっぽを振る姿を見て脱力してしまった。少しはかわいそうだと思っていたのだが何だかどうやら自業自得っぽいものを感じなくもない。
 しかしながら非常に気まずいので話をすり替えよう。

「じ、じゃあ、ご職業は?」
「聞いたら、後戻りは出来ない職業ですが」
「やっぱりいいです!お歳は!?」
「人に戻ってからのお楽しみで」

 結局、何も分からない。
 なんとなくあしらい方や今までの言動から30歳は超えているような気がする。これで20代だったら人格破綻者か犯罪者な性格をしていらっしゃることになるだろう。
 10代だったら嘆くしかない。

「とにかく、今となっては私を救ってくれるのは貴女しかいないんです。まさか見捨てたりなんてしませんよね」
「うっ……」

 ルウスのその言葉はシシィの胸にグサリと突き刺さる。
 そう言われてしまうと協力するしかないことを分かっているのか、と睨みつけるとルウスはにこりと笑った、ように見えた。正しくは犬なので表情は分からない。

「……どうしたらいいか、なんて分かりませんよ」

根負けしてシシィがそう言うと、ルウスも悩むように答えた。

「おそらく、魔術に関する記述をどこかに残していらっしゃるはずです。まずはこの図書室を探ってみましょうか」


こうして、シシィは魔術師になるための第1歩を不本意ながら踏み出したのだった。