理由のある手



 空を見上げれば、先ほどの雨がまるで嘘のような青空が広がっていた。
 ルビーブラッドはカーディガンについていた水滴を払う。少し雨を吸って重くなっているが、この天気と気候ならすぐ乾くだろう。
 路地裏の熱くなった石畳の上に、水滴がぱたぱた、と落ちた。
 何百回と魔導で国から国を渡っても、天気や気候の違和感はすぐには拭えない。
 今まで雪が降っていた国から、急に水すらぬるま湯になるような暑い国に行くこともある。その温度変化はなかなか慣れるものではなかった。
 さて、とルビーブラッドは目を閉じて、魔力を探る。
 自分の魔力をほんの少し分かち合った、オレンジ色の魔力。
 ――近いな。それに、動いている。
 太陽の高さから見て、午後2時といったところだろう。
 ルビーブラッドは、路地から大通りの様子を盗み見た。
 人通りは多く、治安は良い。多くの人々が安心して買い物を楽しんでいる。世界には大通りであっても、安心して買い物ができない国もあるが、この国は治安が良い国だ。スリや盗賊はいるが、人の死に関しては非日常であるように見受けられる。
 でなければ、彼女のようなお人好しは生きていけまい。
 オレンジ色の魔力が近くなったのを感じて、ルビーブラッドはそのまま通りに出た。
 高い背を利用して、薄茶色の頭を探す。
 ――いた。
 前方に、ギリギリ確認できる薄茶色の頭をした少女を見つける。魔力を感じる方向もあっているので、あれが彼女だろう。こちらに背を向けているので、自分に気付いていない様子だった。
 ルビーブラッドはそちらへ歩み始めた。
 徐々に近づくにつれ、何か抱えているのが分かった。ほうれんそうの葉が細い肩越しに見えて、買い物をしていたのだと察した。
 もしくは、まだしている、か。
 シシィ、と呼びかけようとして、一度口を閉じ、再度ルビーブラッドは口を開いた。

「闇色ハット」

 一瞬小さな体が震えて、薄茶色のキレイな髪を広がせながら、少女はこちらを振り返った。きらり、とオレンジ色の瞳が光る。

「ルビーブラッドさん!」

 満面の笑みでこちらに走ってくるシシィを、ルビーブラッドは少々ハラハラしながら見守った。馬鹿らしいとは自分でも思うが、彼女が走ると転ぶのではないかと危惧してしまう。そしてときたまその危惧が当たるから困るのだ。
 今回は転ぶことも無く、自分のもとにたどり着いたので、やっとルビーブラッドは身体の力を抜いてシシィと向き合った。

「いつ来られたんですか?」
「ついさっきだ」
「そうなんですか!ちょうどよかった、私は今、夕飯の買い物をしていたところだったんです」

 上から見えるシシィの買い物袋の中身は、じゃがいもやにんじんなどでいっぱいだった。重そうだな、と思い、ルビーブラッドはそれをシシィの腕から奪った。
 オレンジの瞳がまた輝く。

「重いからいいですよ」
「いや……他に買うものは」
「あ、ええと」

 質問に戸惑うように視線をさまよわせてから、シシィはこちらを窺うような目で見上げてくる。

「この後、何か予定はありますか?」

 ――何かあっただろうか。
 仕事の予定も入っていない。だからこそ、ここに来たわけで。予定というか、しなければならないと言えばホテルを探してチェックインしなくてはいけない。もう切り詰める必要も無いし、ホテルに泊まるくらいの金銭は自由にできる。
 しかし予定という予定でもない。

「特にない」
「じゃあビーブラッドさん、うちでご飯を食べませんか?食べるなら、もう少し材料を買いたいんですが」

 ――それはいいんだが。
 シシィの手料理は美味いので、それはもちろん大歓迎であるし、まだお互いの両親には了解を得ていないとはいえ、婚約者であるからこの誘いは別に都合の悪いものでもないのだが。

「ルビーブラッドさん?」

 途端に不安で瞳を曇らせていくシシィを見て、ルビーブラッドは慌てて返事した。

「食べる」
「よかった」

 はにかむシシィに、不安を覚える。
 自分の婚約者は、とにかく人を疑うことを知らない。
 凶悪な顔つきだと、自他共に認めているこの自分にすら、彼女は優しかった。怯えてはいたが。
 恐れているものに優しくするなど、ルビーブラッドには理解できない行動だ。その優しさはまぎれもなく彼女の長所の1つであるが、だからこそ心配にもなる。
 ――まさか、誰彼と家にあげてやしないだろうか。
 魔術師だから、というより、彼女が人気のないところで1人暮らしをしている、といったところが問題なのだ。確かに魔術師としての面からしても、人を自分の家にあげるというのは褒められる行為ではない。
 相手が一般人であれば、魔術の悪用をされないためにも危険は避けるべきだし、魔術師の場合は自分のオリジナル魔術を奪われる危険がある。
 ――いや、そういえば、以前それは注意したか。
 出会って初めのころに、そのような注意をした覚えがある。
 ならば彼女の性格を考慮すれば、そう心配することも無いか、とルビーブラッドはひとまず安心した。

「この先にお肉屋さんがあるので、そこで牛肉を買いましょう」
「ああ」

 頷いて、並んで歩きだす。
 歩幅の違うシシィに合わせて、少し遅めにルビーブラッドは歩いた。
 ――平和だな。
 先ほどまでいた、自分の国で起こった出来事と比べて、シシィのいるこの街はとても平和だった。

「それで、結局お金は取り戻せましたか?」

 思考を読んだようなシシィの質問に、少々驚いた。
 ルビーブラッドは言葉を選びながら答える。

「全額はさすがに」
「無理でしたか」
「正直、俺はブレックファーストが帰ってきたなら別に構わなかったんだが、他ならぬあいつが……交渉、した、んで1割は返ってくる」
「交渉」

 あえてぼかしたところを、シシィは拾い上げる。変なところで敏い彼女は、その意味に気付いたらしく、乾いた笑いを漏らした。
 まぎれもなく交渉だった。言葉のみに押し留まらないものだったが。
 その道の者すら青ざめさせたブレックファーストの鮮やかな交渉に、ルビーブラッドは少々頭を悩ました。これから先、怒らすとますます怖い存在になってしまった。
 彼はなるべく戦いたくない相手だ。親友としても、別の意味でも。
 ん、と横でシシィが声を漏らす。

「あれ、でも1割って、それでも相当なお金になりま、す、よね?」
「と言っても、大きな依頼を数回こなした程度だが」

 さらりと言うと、シシィは頭を抱えた。ルビーブラッドは首を傾げる。

「どうした」
「……金銭感覚というものについて少々」
「そうか」

 よく分からず、あいづちを打っておいた。
 しばらく悩んでいた様子だったが、何か決着がついたのか、彼女は1人でうんうんと頷き、無理矢理何かを納得した様子だった。
 しかしすぐさま、その頬を赤く染めた。
 ――熱か?
 眉根を寄せて、ルビーブラッドはシシィの顔を覗き込んだ。

「大丈夫か」
「は、はい!モリモリです!」

 何がモリモリなのか、と考えて、元気が、ということに気付く。
 とりあえず、体調が悪いということではないようだ。
 ルビーブラッドは買い物袋を抱えなおしながら、何故彼女の頬が赤いのかを考える。
 隣ではシシィが赤くなった頬を冷ますように、手をあおいでいる。ということは熱いということなのか、と見当をつけるが、今まで暑がっていた様子はなかったのでよく分からない。
 魔力を分け合ったのに、思考は読みとれない。
 両親は分からないが、祖父母は仲が良く、以心伝心という言葉がぴったり当てはまるほど相手の考えることがよく分かっている。
 それは魔力を分け合った仲だからなのかと思っていたが、そういうわけでもなかったらしい。
 気付かれないようにため息を漏らしたルビーブラッドの目に、とあるものが映った。
 ――あれは。
 カフェで仲睦まじく談笑する若い男女。
 それを見て、途端に理解した。
 ――ああ、なるほど。
 理解すると、身体が熱くなる。先ほどのシシィと同じだ。
 つまりこれは、照れている。
 ――よく考えれば、俺たちも同じだ。
 今、この瞬間まで無縁だと思っていたが、無自覚にしていたのだ。この状況は誰がどう見てもそうであろうし、ブレックファーストが目撃したならにんまりしながら指摘するだろう。
 デートだね、と。

「…………」

 照れはするが、困ったことに嫌ではない。
 当たり前のことだ。隣にいるのは結婚を誓った相手だ。
 順番は違えてしまったが、それでも結果は同じだったかもしれない。どのような道を歩いても、最終的にこうして隣にシシィがいたように思う。
 ――これが現を抜かす、ということか。
 ルビーブラッドは自分の考えに苦笑する。
 以前仕事で一緒になった、エルガレイオンという魔導師がそのような感じだった。と言ってもあの魔導師の場合は特定の女性に、ではなく、特定の人形に心を奪われている状態で、現実の異性は非常に憤慨するか、距離を置いていたが。
 しかしまぁ、よいか、とルビーブラッドは己を納得させた。
 仕事なら問題だが、今はプライベートだ。誰に迷惑をかけるわけでもない。
 腕の中の買い物袋を見る。
 中にはにんじん、じゃがいも、ほうれんそうなどの野菜ばかりで、肉や魚はない。

「闇色ハット」
「は、はい!」

 まだ少し赤い顔を、シシィはこちらに向ける。

「戻っていいか」
「……へ?何か、あの、忘れ物でも」
「先にホテルのチェックインをしておこうと思ってな。戻った先にあるか?」
「あ、あります。ブレックファーストさんがお泊りになってました」

 親友が泊まったホテルなら、悪いところではないだろう。
 ルビーブラッドはきびすを返した。シシィもそれに続く。

「でも、少し距離がありますよ」
「構わない。案内してくれ」

 そう言って、一旦深呼吸した後、ルビーブラッドはシシィの手を握った。

「あ、ああ、あの」
「……人が多いからな」

 シシィの手はあたたかくて、自国の雨で少々冷えていた手をあたためてくれた。
 今はまだ照れくさくて、理由を言わなければ繋げない。
 やわらかくて、細くて、小さな手。
 この手があの夜、自分を救ってくれたのだ。
 ――だからというわけじゃない。
 死に瀕したあの夜がなくても、きっとこの手を守ると誓う日は来ただろう。少しずつ降ってきた彼女の優しさに、自分の全てを約束する日が。
『……私は、ルビーブラッドさんのことがずっと好きです』
 薄茶色の髪。
 キラキラ光るオレンジの瞳。
 胸が痛くなるような泣き顔。
 その全てが愛おしいと思う。

「あ、あの、本当に、遠いですよ」
「疲れたなら馬車に乗っていくか?」

 シシィは勢いよく首を横に振り、否定した。
 今、この瞬間だけは、考えが同じなのかもしれない。ルビーブラッドはそう思う。
 ――少しでも、隣にいる時間が長いように。

「じゃあ、歩くか」
「はい!」

 満面の笑みをこぼすシシィを見て、ルビーブラッドもわずかに微笑んだ。
 ――きっと、いつか。
 理由も無く、手を繋ぐ日が来るのだろう。






















「ワンダホー!僕もあの中に混ざって愛のまなざしを交わし合いたいよ!」
「ダメだって、ヴィトラン。あんなデレデレしたルビーブラッド見たことないんだから、もうちょっと尾行しよう。どうしてもっていうなら夕飯時にお邪魔すればいいじゃないか」
「なんという妙案!天才だ、ブレックファースト!闇色ハットの手料理という名の愛を貪るのも悪くない」

 その後方100メートルあたりから、怪しい影が覗いていたことにシシィとルビーブラッドは全く気づかず、のんびりと買い物を楽しんだ。
 無論、その後の夕食は言うまでも無く地獄絵図と化したのであった。